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今西健太郎が 卓球人生におけるキャリア転換期から学んだこと ~学生編~

2020年3月29日

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ここ数ヶ月、体調を崩すことが多すぎて、ふと思いました。
そうだ、野菜を取ろう。
ということで、ずっと目を背けてきた自炊を始めました、この僕が。(知らんけど)
12月と2月で一回ずつ、わりとがちで死にかけました。おすすめの手抜きレシピとかあったら、ぜひ教えてください。笑

今西です♪
皆さん、お疲れ様です。

南伊豆町紀行はいかがでしたでしょうか?楽しく読んでいただけましたでしょうか?^ ^
「記事を読んで南伊豆に行きました!」って人がいれば泣いて喜びます。

参考〜卓球紀行〜 ぶらり南伊豆の旅 with セレクトショップZuZuさん

さて、私にとって2回目の記事は、タイトルの通り、「卓球人生におけるキャリア転換期から、私が学ぶこと」について、です。
というのも、私のことをご存知ない方がほとんどだと思います。
興味ないわ!!!って方も、これを機に少しでも関心を持ってもらえたら幸いです(( _ _ ))笑

どんな生い立ちで、どんな卓球人生で、それをどんな想いで歩んできたのか。
自己紹介も兼ねて、あくまでも一個人の学び、感想として受け取ってもらえればと思っています。

また、昨今、「セカンドキャリア」「デュアルキャリア」等といった言葉が、アスリート全般のキャリア形成に関する話題として、様々取り沙汰されているかと思います。私のこれまでの経験が、卓球愛好家の皆さんにとって少しでも有意義な時間になればと思いながら、記します。

と、そのまえに!
一つだけ告知させてください!
Twitterでも報告させていただきましたが、「YouTubeチャンネルを開設」いたしました!!!
下の動画で、チャンネルを開設したきっかけも含め、今後のことについて簡単に話しています。是非一度のぞいてみてもらえると嬉しいです( ^ω^ )そして、良ければ是非、チャンネル登録をお願いします♪

【YouTube】IMAPI DIARY 【Twitter】今西健太郎をフォロー 【Instagram】今西健太郎をフォロー

 

キャリア転換期からの学びとは...???

それでは、本題ですが、まずタイトルの「学び」について、結論からお伝えします。

「どうなりたいのか」「どの環境に飛び込むべきなのか」をいかに考え、選択するか

自身の経験から、私はこの「自らが飛び込む環境を選ぶプロセス」が最も重要なんじゃないかなと感じています。
世の中にはいろんな人がいますが、この選択を疎かにしたが故に、志半ばで挫折していった人を多々見てきました。もちろん、自ら飛び込んだ環境でどこまでのパフォーマンスを発揮するか、これは言わずもがな、大切なことですd( ̄  ̄)

言われるがままの幼少期〜公立中学時代

私の地元は京都で、実家は卓球スクールを経営しています。
ちなみに、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、父はマスターズ30代、40代でそれぞれ優勝しているみたいです。もし機会があれば注目してみてください。笑
そんな両親や三つ上の姉の影響で5歳くらい?で卓球を始めました。

ここでいきなりプチ転機が訪れます。笑
実は私、卓球は右利きなんですが、それ以外はほとんど左利きなんです。
卓球を始めた当初は左でラケットを持っていたらしいのですが、疲れてくると右手に持ち替えていたそう。
「どっちがやりやすい?」という両親の問いに、あろうことか「右」と答えたそうです(´・ω・`)
未だに悔いは残りますが、こればっかりは結果論なので…今となってはこれでよかったのだと自分に言い聞かせています。笑

地元の公立小中学校に通いながら実家のスクールに通っていたものの、ほとんど惰性でした。
放課後、友達とドッジボールをしたいが故に、何度も嘘をつき、その度に母に叱られていたことを今でもはっきりと覚えています。笑

京都で本当にそれなりの結果を残し、それなりの卓球生活を送ろうと思っていたのですが、中学3年生で転換期が訪れました。
私としては、ここが自分にとって人生の分岐点の始まりだと感じています。

転換期その① 全国の舞台が諦められず、身の丈に合わない強豪への進学を決意

というのも、最後の全中予選である近畿大会で1回戦でずたぼろにやられ、大して努力もしてこなかったくせに、そこで初めて猛烈に悔しい想いをしました。
実はこの時、既にとある高校から特待で入学させていただくお話をいただいていたのですが、
「このまま全国大会で活躍しないままじゃ終われない」
と、そう心から感じ、両親に、日本随一の伝統校である「東山高校に入学させて欲しい」と直談判しました。
もちろん無名の自分は、全額負担で私学高校に入学することになるので、親にとっては大きな負担です。
それでも両親は嫌な顔せず、私の気持ちを尊重し、東山高校への入学を許可してくれました。
しかしそこには、高校から卓球を始め頂点を極めた父と、強く約束したことが1つだけありました。それは、

「やるからには、本気で、死ぬ気で、レギュラーを狙い、絶対にインターハイで活躍すること」でした。

死に物狂いの3年間 東山高校に入学

無名の私が東山高校に入ることに対して、両親は知り合いのOBから「身の程知らずだ」と言われたことも多々あったそうです。

東山高校では、まず新入生のうちに基礎体力、基本技術を徹底して体に染み込ませるのですが、メインは多球練習(通称トス練)です。
元々貧弱で体力もなかった私は1日の練習にまともについていけず…。入学して早々、ここで二度目の両親への直談判。笑

部員でほぼ唯一、通い生(基本は寮生活)だった特権を生かし、通学途中にあるジムに通わせて欲しいとお願いしました。
もちろん、3年間通うとなると、かなりの金額がかかります…。今思えば、本当に好きにやらせてもらっていたなと、本当に有り難く感じます。

規定練習+居残りトレーニング、サーブその他練習のあと、家に帰ったフリしてジムでトレーニング。こんな生活で自分を追い込み、やっとこさ周りのみんなと同じくらい練習についていけるようになりました。3年間で何足ものシューズを血まみれにしたことか...思い返しただけで吐き気がします( ´Д`)笑
今でこそ体力お化け(笑)と言われますが、これがその所以です。笑

戦績的なところでいうと、基礎のたたき込みの甲斐があったのか、一年生のうちに、これまで勝てなかった相手に勝ち星をあげられるようになり、近畿レベルではそれなりのところまで勝ちあげれるようになっていました。

歴代の強い先輩方が順に卒業され、やっとレギュラーのチャンスが回ってきた二年の全国選抜。東北震災で大会中止。
これは、仕方がないことと言えど、当時高校生の私にとっては本当に精神的にきつく、しばらく泣いて引きずっていたのを覚えています。笑

スポーツ推薦で大学に進学する高校生においては、実績のある選手から順に、高二の夏〜冬には大学が決まっていくのが例年の流れかと思います。
選抜中止により、私にとって最後の夏、インターハイは、チームのためはもちろんのこと、自分の人生を大きく左右するラストチャンスになってしまいました。泣

また後で書きますが、高2の秋から私が志望していたのは、スポ推といえど十分に落ちる可能性もある大学で、当初監督陣からは反対されていました。
指導者としては、他にも手堅いルートもある中、心配になって当たり前ですよね…。
他にも選択肢がいくつもあった中、それでも私は、険しくも自分が目指す道を切り拓くきます、と断言しました。ここが二度目の転換期でした。

転換期その② 落ちるリスクもある中、文武両道を実践する関西の名門への受験を決意する

大見得を切った手前、あとがなくなった私です。笑
インターハイ大会前から期間中を通して、本当に色々な出来事がありましたが、結果的には四年ぶりの3位入賞で幕を閉じました。
(需要があれば追々どこかで話せればと思います。笑)


↑いやいや、フライアウェイしすぎ。この時は心も体も若かった。笑

↑こんなところで現チームメイトの島村くんとコラボしてました。笑

無事に、スポーツ推薦に必要な最低限のハードルをクリアすることができたのですが、それ以上に、高校3年間で数々の修羅場、目に見えない貴重な経験から、多くの気付きを得ることができました。恩師である今井先生、宮木先生、当時コーチの時吉さん、両親、その他当時支えてくださった方々には心から御恩を感じています。

そんなこんなで、死に物狂いで辛い記憶が九分九厘の高校生活。
入学当初、20人弱いる部員の中で下から2番目だった私ですが、引退するときには大島選手(現木下グループ)に次ぐ2番手で卒業を迎えることができました。

文武両道の難しさとやりがい 同志社大学に進学

次に待ち構えていたのは「入試」という難敵でした。笑
同志社大学は、卓球部として〜人といった固定枠があるわけではなく、あくまでスポーツの実績で一次選考が行われその後の論文、面接でふるいにかけられる受験方式です。要は、「普通に落ちます」。笑

それでも、京都育ちで昔から学生リーグもよく見ていた私は、卓球に対して最もひたむきに取り組んでいると個人的に感じた、「同志社に、絶対入りたい」と思い、落ちるリスクも十分に鑑みた上、受験を決意しました。

私の代でいうと、書類選考の最低ラインが全国ベスト8、トータルの倍率は確か4倍?くらいだったと思います。
勉学で受験される方々にとっては大したことないかもしれませんが、スポーツ野郎にとっては十分すぎる壁です。笑
現役大学生のご指導のお陰様で、なんとかその壁もクリアすることができたのですが、もし落ちていたらと思うと、今でもぞっとします_:(´ཀ`」 ∠):

既述の通り、同志社は選考が厳しいこともあり、卓球における、いわゆるエリートは少なく、一般で入学してきた学生も多く混在する部活ですが、そんな環境ながらも創部90年余りもの間、関西学生一部リーグから陥落したことのない伝統校です。これまた今思えば貴重な経験をさせてもらっていたなあとつくづく思います。

学生リーグ戦(1複6単の団体戦)では8割程の勝率をあげられたものの、関西学生選手権、全日学では全然勝ち上がれず、個人戦は大の苦手でした...。
そんな中、最後の関西学生選手権においては、直前の部内戦で肩をぶっ壊してしまい、まともにラケットを握れない大失態を犯してしまいます。泣
しかし、好き勝手を許してくれた両親のためにも、せめて「黄色ゼッケン(関西学生でランクに入ると連盟からもらえる)」を獲得しよう、と
痛み止めを大量に飲みながら(笑)死に物狂いで戦い、親の前でなんとか一矢報いることができたときは流石に泣きました。笑

また、3年の秋からは主将を務めさせていただくことになり、ここでも挫折がありました。
これまで、持ち前のど根性で全てを乗り切ってきた私でしたが、一般生も多くいる部ではそんな凝り固まった考えでは反発は起きるばかり。元々メンタルがそんなに強くない私は、当時軽度の精神障害に陥っていました。笑 今でこそ、こうやって当時のことを明るく話せますが、実際、かなり心身ともにすり減っていました。

しかし、そうもいっていられず、部の風通しを良くする為、頻繁にチームミーティングを実施してレギュラー外の選手からも意見を取り入れるようにしたり、競争心をもたせるために工夫して部内戦を定期的にしたり…。
あとは根性論の良い部分は残した上、どんな環境で育ってきた選手にも客観的に伝わるように練習、トレーニングメニュー、心構え等を一から説明したりと、自分が目を瞑っていてしまっていた部分を、同期・後輩から気付かせてもらうことができました。
そして、主将として迎えた最後のリーグ戦では、格上だったチームに金星を挙げ、春秋ともに3位という結果を残すことができました。
最終目標だった優勝は叶わなかったものの、部員全員で最高の景色を見ることができたのではないかなと今でも誇りに思っています。

学生編 まとめ

以上、私の学生時代の経歴について、一通りご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか?(><)
当時のことを思い出しながら書いていて、息が切れました。笑

「東山高校入学」「同志社大学進学」いずれの選択も、当時の私にとっては身の丈に合わない環境に飛び込んだと今でも思いますが、結果的にはそれが1番の正解だったんじゃないかと感じています。冒頭でお伝えした通り、自分が目指す場所に到達するために、過ごすべき環境に思い切って飛び込むこと。あとは自分のやれることをがむしゃらにやってその環境に適応するだけ。これが目標を達成する最適なプロセスだと私は思います。
この姿勢は、社会人になった今でも大事なことだと度々思います。限度はありますが、今の自分には手に負えなさそうな仕事でもまず手をあげる。成功させるために自ら考え、時には失敗しながら、アドバイスをもらい、またチャレンジする。これの繰り返し...。

今でこそ、有難いことに、それなりに皆さんに知ってもらえる機会も増えてきましたが、決して、華やかで順風満帆な卓球人生ではなく、泥臭い雑草魂で駆け抜けてきたことだけでも感じ取ってもらえていれば幸いです。
今からもう一度やり直して来いと言われたら全力で首を横に振ります。笑

自身の経験からも、雑草が花を咲かすには、目に見えない泥臭い努力が必要だと私は思っています。
私の戦績はたかだか知れてますが、日本のトップで戦う選手は、それ以上に血の滲む必死さがあるのだと改めて思います。
何度も申し上げますが、この記事は、一個人としての学び、行動記録ぐらいの気持ちで読んでいただけていると嬉しいです。

ちなみに、
座右の銘は、「現状維持は退歩の現れ(東山高校卓球部十訓より)」、好きな言葉は「The easy way has no meaning.(わかる人にはわかる。笑)」です。

そして、大学引退後の今西に3度目の転換期が訪れます。その点も踏まえて、次回は、ごりごりにやっていた学生から、社会人になってからの卓球に対する取り組み方、マインドの変化についてご紹介していきたいと思います。

それではこの辺で。See you again(^^)/~~~

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  • この記事を書いた人

今西 健太郎

皆さん、初めまして。 京都にある実家の卓球スクールで卓球を始め、東山高校、同志社大学へと進学。現在は製薬企業でMR(医薬情報担当者)として東京で働きながら、TIBHAR契約選手として卓球人生を謳歌しております。これまでの経験や挫折から得た学び、マインドを発信します。

-寄稿記事
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